数百年かけて長崎から日本に広がった甘い文化
●貴重な薬として重宝されていた砂糖は、貿易が盛んになると船のバランスをとる重し代わりに
長崎が開港し海外との交流が盛んになるずいぶん前、日本にもたらされたごく少量の砂糖は、食用ではなく喉の薬として薬問屋があつかうものであった。料理の調味料として使うには勿体ない存在であった砂糖は、長崎の貿易が盛んになるのと同時に大量に海外から輸入されるようになる。日本にとっては貴重なものであった砂糖だが、当時は貿易船のバランスをとるための重し代わりに大量に砂糖を詰め込んでいたという。砂糖の輸入とともに、甘い味付けの南蛮料理やカステラ、金平糖、ぼうろなどの南蛮菓子も日本にもたらされ、食用としての砂糖の使い方が長崎のなかでじんわりと根をはっていった。
●シュガーロードと呼ばれる長崎街道がつなげた、甘味にほころぶ幸せな顔
何でも寛容に受け入れてきた長崎だから砂糖が根付くのもはやかった。南蛮料理は長崎流にアレンジされ砂糖は長崎の食卓で贅沢に使われるようになる。人々を虜にしたそのおいしさは、長崎街道と呼ばれる道を通って小倉に伝わり、徐々に全国へ広がっていった。長崎街道の長さは約57里(約228キロ)で当時の人はその道のりを1週間で歩いたといわれているから驚きだ。足早に広がりをみせた砂糖が運ばれた道はシュガーロードと呼ばれ、その道沿いに生まれた甘いお菓子は今なおたくさんの人に愛されている。
●日本の食文化に一大改革を起こした場所だからこそ 「長崎の遠か」という言葉が生まれる
かつて頻繁に、料理が甘くない時に使われていた「長崎の遠か」という言葉。砂糖を少ししか使わずケチったことを比喩した表現で、「砂糖=長崎」であったことがうかがえる言葉だ。大量に輸入されていたとはいえ高額で取り引きされていた砂糖は当時の贅沢品。砂糖をたっぷり使って甘い味付けにすることは、最高のおもてなしのひとつであった。甘いことが、うまいことであった時代。長崎が日本に与えた食文化への影響は、はかり知れないものであったのだ。
▲今なお愛されているカステラや、よりより、月餅、ようかん、丸ボーロ、金平糖など甘いお菓子が道沿いに生み出され広がっていた
▲大量の砂糖で作った大黒さんは最高の敬意をあらわした贈呈品で、祭り事や祝い事にも甘い菓子が贈られた